以前、友達の勧めでブログの記事を書くことになったことがあって(恥)
その時の記事を久しぶりに読んでみたら「おっこれいいんじゃない?」ってなったんで
ココにも載せますね (ゆっきー勝手にごめん!)
クリエーター系のブログとか載ってるからコッチも覗いてやってください!
沖縄Daily Voice
以下はその時に書いた記事の本文。。。
新年明けましておめでとうございます。
宮城です。
映像作家と言う肩書きを背負い込み『次の作品は構成中』ときり投げて、はや十年。
こんな自分がブログで自己紹介するのもなんですが、
とりあえず、今回はタイトルの説明しますね。
Imago (イマーゴ)
この言葉と出会ったのは十数年前。
当時つき合っていた彼女がふと「“イメージ”という言葉が持つ雰囲気が好き」
言ったもんだから、すぐそこで電子辞書を引っ張りだし、
語順検索で類似表現や関連する言葉があるかを探してみたら出て来た言葉。
当時使っていた電子辞書は数年前に息子にオモチャ代わりにされて紛失してしまったため、
今回は自分なりに説明しますね。
Imagoとは心理学の世界で、
幼少時代に愛する者(親等)に対する愛情が抑制されて形成し偶像化された感情のこと。
生物学的には、
チョウやガなどの昆虫の最終変態をとげて成虫なったものの意味。
映像作家として作品をひねり出そうとするときは何かとやはり自分と向き合う事が多いもの。
そして、その向き合う時間のなかで最も頻繁に思い起こてしまうのが子供の頃の記憶。
子供の頃は、本当に一日も早く“大人”になりたかった。
大人はかっこ良かった。
確かに子供にしてみれば親や大人に愛情や尊敬を感じるのはありきたりの感情かもしれないが、
自分の場合、それが少しばかり違っていた。
自分の場合、思い憧れるのは自分自身の未来予想図であり、
大人になって夢を舞台に生きている自分自身の姿だった。
雲の上の大人になった自分自身。
多分これは離婚して家を出た父からの影響があるのかもしれない。
もとからカンシャク持ちで、ガソリンの様にふとした事がきっかけで
引火してはすぐに鎮火する親父とは馬が合わず、
そんなに深く交わることも少なかったからなのだろう。
時をみつけては大きく、かっこよく成長した自分の姿を想像し、
未来に期待を膨らませたものです。
しかし現実はやはり上手くいかないものですね。
そんな中である日、とうとうこんな自分にも息子が出来ました。
それはいわゆる“出来ちゃった婚”で、気がつけば隣に自分の分身がいました。
びっくりですよ。
予定も立てずに人の親になってしまったモノだから、ここからが大変。
家庭の為に収入を安定させなくてはならない。
この子が成長して立派な一人の人間になるためにも自分がしっかりしなきゃいけない。
親としてのプレッシャー。
夢を生きたい。
一日も早く、一人前の映像作家にならなくては。
しかし思いとは逆に空回りするのが現実というもの。
映像作家というものの、収入はピンキリで安定感は全くゼロ。
低収入が招く離婚の危機。
一時期は一年以上も仕事にありつけなかった。
不安定要素ばかりを抱え込んだ自分のこれからの道をケッコー悩みましたよ(笑)。
子供の頃に思い描いていた大人のイメージとはかけ離れて違う自分が大人(成虫)になってた。
「こんな親でごめんな。」と息子に向けて心の中でつぶやく。
そんな己を嘆き憂いている自分のもとへ、息子が甘えて近寄って来ます。
「遊ぼ」って。
大人になると、どうしても理屈っぽくなり、合理性や便利性を優先に選んでしまうことが多く、
しかも過去に捕われがちですが、息子の彼の愛情には理由なんかありません。
その時気付かされました。
自分は自分で造った自分に押し込まれていたのです。
息子にしてみれば親父は親父であり、それは普遍的な存在として
過去も未来も関係なく偉大な存在なんですね。
大人<成虫>になった少年は
思い描いていた自分自身の未来想像図<イマーゴ>によって本当の自分を失いかけていました。
現在、僕自身からすると、このimagoと言う言葉は呪いでもあり、賛美でもあります。
その理由は、人生って何があるかわからないじゃないですか?
明日は雨が降るかもしれないし、晴れるかもしれない。
でも天気予報で「晴れ」って言ってたのに実際のところ雨降ったりしたからって
落ち込んじゃっても意味ないと思いません?
それが人生って、思いませんか?
僕は今、そう思います。
さて、しょっぱなから重たい題材をテーマに初の記念すべきブログをかいた宮城ですが、
次回は少し軽く(笑)歴史と自分の好きな言葉について書いていきたいと思います。
ビデオなんかも添えて。
お楽しみに。。。
Laterz…
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